がん闘病記

がんの余命宣告はなぜ辛いのか?落ち込まない考え方

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余命宣告はなぜ辛いのか?

僕は入院中のベッドで考えはじめました。

余命宣告はなぜ辛いのか?死の恐怖を和らげる考え方

人は自分の命が永遠ではないことを知っているはずです。

余命が短いことを嘆くのでしょうが、恐らくそれは平均寿命と比較した自身の寿命の短さ、あるいは突然告げられたリアルな残り時間の短さへの嘆きでしょう。

もし生まれた時、全ての人間が確実な余命宣告をされたとしたら人はどう思うのでしょうか?

あなたは100歳、あなたは70歳、あなたは40歳、あなたは20歳。。。

そして、もし苦痛の無い死にかたができるとしたら、「死」そのものに対する恐怖とはどのような恐怖なのでしょうか?

死んだことがないのでわからりませんが、死んだ後は恐らく何も感じません。

死ぬ当人にしてみれば喜びも悲しみも幸せも不幸も、全て生きている時にのみ感じるのでしょう。

死は永遠に眠ることであり、普通の眠りと違うのは、夢を見ないのと、目覚めることがないというくらいなのではないでしょうか?

だからこそ、生きることの苦痛に耐えかねて、生きることよりも死を選択する人がいる。

きっと、死ぬことより生きることの方が辛いと判断したからでしょう。

そう考えると、死ぬ前に、自身が自身の「死」そのものに対して悲しんだり不幸だと感じるのは至極時間の無駄なんだと思えました。

どうせ、恐らく死んだら自分は何も感じないんですから。

幸せはどれだけ生きたかではなく、どれだけ気づけるかで決まる

生きている間は、自分の寿命や死ぬことを嘆いたりせずに、限られた時間でありったけの幸せを見つけて眼一杯楽しまなきゃ損ってものです。

例え平均寿命より大幅に少ない人生だったとしても。

幸せは、なるものではなく気づくものであり、命の長短などを含めた、ありとあらゆる境遇で決まるのではなく、自身の幸せに気づこうとする気持ちで、力で決まるのだと思いました。

短い人生が不幸な人生なのだとしたら、命の期限の短さそのものが不幸なのではなく、命の期限を嘆くあまり、自分が今生きていることを忘れ、気づけるはずの幸せに気づけないことが不幸なのです。

では幸せな人生とは?

例え命の期限が短くても、どんな境遇であっても、その中で沢山の幸せに気づき、死の瞬間、幸せな人生だったと心から思えたなら、誰が何と言おうとその人の人生は幸せなのだと思いました。

少なくとも僕はがんになったことで、今まで当たり前だと思っていたことがいかに有難いことかに気づけました。

それらに感謝することで自分がいかに幸せであるかに気づくことができました。

そんなことをベッドで考えながら、まだ僕の思考はめぐっていました。

続く。

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